Words of VM

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2007年 01月 14日

ブレイズ本 序文訳(全体)

Sheffield United FC The Biography
序文

多くのサッカーファン同様、私には自分が追い求めるゲームとクラブに初めてであったときの鮮やかな思い出がある。父ブライアンと祖父ハロルドがシェフィールドユナイテッドのホーム、ブラマールレーンに私を初めて連れて行ったのは60年代中頃、私が5つか6つのときだった。夜の試合で、凍て付く2月の夜だっ た。素晴らしい観衆が見事な雰囲気を生み出していた。投光器による不気味な照明を夜空は浴びていた。その照明は夜にブレイズファンたちをシェフィールドの素晴らしいサッカー劇場へと導くビーコンのような働きをしていた。試合に遅れている他の人たちと一緒に通りを急いでいると、グラウンドの中から大きな歓声が沸きあがった。アラン・ウッドワードが先制点をあげ、私たちはそれを見損なったのだ。長年にわたって、早めの得点を見逃すことがちょっとしたテーマとなっていた。10代後半からパブでもうちょっと時間をすごしたがる仲間たちと一緒にいるのが普通だった。

その夜Kopから赤・白・黒を着た私のヒーローたちを見下ろしながらの、パイをむしゃむしゃ食べボブリルをゴクゴク飲む大勢のブレイドたちと一緒の夜の試合の不思議な輝きは決して忘れないだろう。私は夢中になった。シェフィールドのような偉大な街では、自分たちをサッカーの温床と呼ぶ世界中の街と同様、応援するクラブは選択できるものでほとんどない。サポートは世代から世代へと受け継がれる。私の祖父はブレイドで、私の父はブレイドだった。私がヒルズバラで行き着く場所は他にはなかった、そうだろ?

70年代ティーンエージャーだった私はKopの常連となった。テラスがもたらす押し合いへしあいを愛していた。怖がったり恐れたりすることは決してなかった。どうして怖がらなきゃいけない?家族、友人そしてブレイドの男たちに囲まれ、歓迎されない訪問者たちはすぐに追い払われる。ユナイテッドが点を入れると、若い男は最後には熱狂の中振り回されて、元々の場所から遠くはなれた場所にいる自分に気づく。喜びが収まったとき、私たちはみんなどこから来たかと見回したものだ。時々それは何ヤードも離れていることもあったが、全く素晴らしい旅だった。1970年代初頭シェフィールド・ユナイテッドは調子がよかった。多くのブレイドたちと同じく、私はトニー・カリーが、そして、彼の洞察力と彼の見事な才能が大好きだった。髪の毛を伸ばし、もみあげが伸ばせるようになったとき、私はカリーのニセモノとしては悪くなかった。アラン・ホジキンソが大のお気に入りだった。何十年ものユナイテッドのキーパー同様。メル・リーズ、サイモン・トレイシー、アラン・ケリー、ジョン・ブリッジそして今ではパディ・ケニーだ。彼らはみんな、素晴らしいキーパーで素晴らしい人々だ。

地元のライバル関係はいつでも、ブレイドであることの大きな一部だ。60年代と70年代、リーズ・ユナイテッドが一流クラブで、金で我々の最高の選手を 買っていた。リーズファンは自分たちがヨークシャーで一番のチームだという奇妙な考えを持っていた。しかし設立はユナイテッドの40年も後で、シェフィールドと同じサイズの街でたった一つのクラブだ。我々の最高の選手たちを摘み取ってきた後、今では立場は逆転している。シェフィールド・ウェンズデイが、も ちろん、我々の最も近く、最も大切なライバルだ。しかるべきところでは尊重すると、彼らにも多大なサポートがある。シェフィールド・ダービーは熾烈で、騒々しい。こういった行事は、我々の街にとって名誉なことだ。当局がクラブとファンに土曜の3時の試合をすることを許すことはこのごろめったにない。サッ チャー主義立法と手を組んだ、試合に関する新しい公正さがシェフィールドの2つの偉大なクラブの間のライバル関係のいくらかを終わらせてしまった。今我々に残されたのは現状に関する果てしのない議論だけになるだろう。統計上、2つのチームの間の試合の勝ち数は我々の方にずっと多いということはわかっ ている。とにかく、祖父が「The Parsons Cross Rangers」と呼ぶものがダービーマッチでたいてい大声で歌われており、カリスマ性と格好良さではおおむねブレイズに張り合うことはできないのだ。我 々は彼らとは違う。

長年撮影のために世界中をまわってきた。望むよりずっとたくさんユナイテッドの試合を見逃してきた。ブレイズの幸運を捜し求めて風変わりな場所から長距離電話をかけている自分を見てきた。私にとって忘れられない試合の日はインドのラジャスタンでのものだ。靴屋にインターネットをつけさせ、ラジオ・シェフィールドの試合の実況を聞かせてもらうのに、サンダル4足を買わなければならなかった。クリミアにいるときもラジオシェフィールドを電話越しに聞いた。 どういうわけか、こういった試合はすべてより忘れがたいものとなっている。

ユナイテッドの試合があるときはいつでもブレイドたちの存在は明らかだ。それがミルウォールのバーやバーンズリーのWorking Men's Clubでも。こうやって気持ちが一つになるのを見るのは私にとって喜びだ。ブレイズのアウェイの日々は時に奇妙で、いつも台本なしだ。(31歳と若かっ た時)ウィンブルドンのプラウ・レーンでクロスバーにぶら下がり、ピッチから大急ぎで逃げ出し、運転手つきの車に乗り込んだことを覚えている。その車で ヒースローへ行き、ハリソン・フォードとの「パトリオット・ゲーム」の撮影を終わらせるためにロサンゼルスへ飛んだのだ。いい時代だった。映画も悪くなかった。

祖父は数年前に亡くなった。彼の灰はブラマールレーンのピッチに撒かれた。父は今でも私の甥と一緒にKopの後ろ若いブレイドたちの近くに立ってい る。こういった若者たちは元気がよく生き生きと、歌い踊る。彼らを誇りに思っている。彼らの存在はクラブの将来にとって好ましいことだ。1995年ブラマール・レーンでの『ドリームゴール』の撮影に来ていた人たちのことを、そしてピッチで撮影しているとき何万ものブレイドたちが受け入れてくれたことに心が震えたことを決して忘れないだろう。そのことに私は永遠に感謝する。私はその夜、地に足を再びつけるために、2ガロン(パイント16杯)のラガーを飲んだ。

2001年シェフィールド・ユナイテッドの理事会に参加するように要請されたのは私にとって名誉なことだった。それ以来理事席のパッド入りの椅子の快適さ を楽しんでいる。しかし、地位は責任をもたらす。そして、クラブのデレク・ドーリー会長は私の言葉遣いの悪さと時々大騒ぎを起こすことに関して、私にお小言を言わなければならなかった。だから最近私は自分の席の配置を少々取り替えるようにしている。そうすれば、色んな人を困らせることができるからね!私は ブレイズファン、とりわけ、ハンズワース、ウッドハウス、ダーナル、マナーといった拠点からの人々と一緒にいることを愛している。今日でもシェフィールド で遊びに出かけるときに行くパブやクラブは、いつもブレイドが優勢の場所だ。こういった場所や人々は永遠に私の生活の一部だろう。

ここ16年私はゲイリー・アームストロングと一緒にユナイテッドの試合にきている。生まれたときからのブレイドで私と同じくハンズワースっ子の彼は26年前私と同じ年同じ月にロンドンへと移った。彼は多くの本を書いており、サッカーとその意味合い、そして何が私たちをこれに熱中させ続けるのかということを考察する多くの本に寄稿している。私の親愛なる友人の1人でもある。

この本には我々のクラブの歴史に関する素晴らしい物語と興味をそそる洞察がある。

彼の話を楽しんでほしい。

Keep the faith.
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ショーン・ビーン&Farquhuar
2006年ハンズワースにて
「Attercliffeにて4ポンドで2つのタトゥー」
ということで全訳です。解説はそれぞれの訳を初めにあげた場所で。
写真は一人当たり2ポンドでタトゥーを一緒に入れた相手かと。

by miyelo | 2007-01-14 09:34 | ショーン(Blades)


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